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由布院100年の森を目指して

由布院の街を作ってこられた溝口薫平氏に、由布院の緑とこれからの由布院について伺いました。

溝口薫平
1933 年生まれ。日田市立博物館勤務を経て、55 年より湯布院の自然保護、まちづくりに携わる。66 年、玉の湯旅館の経営に参加。サントリー地域文化賞、西日本新聞文化賞、大分合同新聞文化賞を志手康二氏、中谷健太郎氏とともに、また運輸省(現国土交通省)の交通文化賞を中谷健太郎氏とともに受賞。政府の「観光カリスマ百選」の第一弾 11 人の一人に選ばれる。湯布院町商工会長、(財)人材育成ゆふいん財団理事長などを務める。現在、(株)玉の湯会長(由布院 玉の湯)。2005 年春の叙勲にて旭日小授章受章。

徳永哲
九州芸術工科大学(現九州大学)卒業後、主に九州・沖縄地方の農山漁村地域の活性化へ向けたランドスケープ計画設計・マネジメントに携わる。2017年より東日本大震災被災地の復興へ向けたランドスケープ計画設計を展開する。
㈱エスティ環境設計研究所代表取締役、九州大学客員教授などを経て、現在株式会社ランドスケープむら代表取締役を務め、東京大学 生産技術研究所 リサーチフェロー、九州大学 学術工学部 非常勤講師、黒川温泉環境計画アドバイザーにも携わる。

由布院の成り立ちと「花水木」

(徳永)広い範囲の由布院についてまず伺いたいと思うのですが、由布岳から由布院盆地へと流れる自然の地形を、どうまちづくりに活かしてこられたのでしょうか。

(溝口)まず1970年のことですが、別府から由布院の中間に湿地帯があり、植物の宝庫と呼ばれる「猪の瀬戸」という地域があるんですが、そこが開発のターゲットになったんです。そこで「由布院の自然を守る会」を立ち上げ、開発に反対する意見を述べたんです。
しかしどうもメンバー以外の市民の方々は関心がなく冷めている感じがして、仲良しごっこ集まりのように思われていたのかもしれません。1年で「明日の由布院を考える会」へ名称変更をしました。また開発推進派も現れ、相反する方との議論が熱狂して話をまとめるのに本当に苦労しました。
そこでもっと市民に状況を伝え、考えてもらうために生まれたのが「花水木」という雑誌なんです。
これがまず市民が由布院の今に興味を持ち始めるきっかけですね。記憶を記録として残していったんです。

本多清六博士と由布院

(徳永)もう少し時を遡ると、本田静六博士が由布院にいらっしゃっていますよね。本田博士が見られた由布院というのはありのままの自然だったのでしょうか。またはすでに手が加わっているものだったのでしょうか。

(溝口)本田博士が来られたのは大正13年頃のことですから、きっと由布院はまだなにもない状態であったと思います。田んぼはあるけど、森にとっては荒れていて豊かな土壌ではなかったんです。ただ、日出生台演習場の影響で河川工事が行えるまでは誰も手も付けないような土地でしたね。本田博士が盆地全体が公園のようになっていくようにと計画した時からもう100年になりますね。そしてその計画から私たちがドイツのバーデンヴァイラーを視察したことがきっかけで今の由布院の始まりと言われていますね。ヨーロッパを見て、まちの中に年代を見ることができ、日本では大山(大分県日出町)がとても参考になりました。そこで先ほどの「花水木」で市民の皆さんに知っていただくんです。映画のシナリオを書いていた中谷健太郎さんの閃きから企画が生まれ、夢想園の志手さんが編集、私が広報という役割で動いていましたね。

表裏一体となった由布院の街

(徳永)時代が平成に入ってバブルなど含め風景が変わっていったかと思います。
まちにとってどのようなことを大切にされてきたのでしょうか。

(溝口)やはり表と裏があるように活気のある所とホッとする空間をどう作るかですね。陽と陰の両方を作ってあげないといけないと長く滞在できないと思う。当時は国際通りと言って今の湯の坪では色々な国の人がいる通りと、一本縦の道に入るとホッとする空間をどう作るかというのを明確にしてきた。

ただ何もかも保存していこうと、きちんと整備していこうと日本全国色々なところでされているが、それは一方で街全体の力が落ちていて、まぜこぜの文化があることによって切磋琢磨していくことで街が活性化していくのではないかということで、全国色々見て回りました。街の中で民度を育てていく。外の人からはなんでこんなに由布院ってややこしいんですかってよく言われたんだけど、賛成反対が絶えず起こるんですね。ただ、その風土が街を活性化しているんだと私は思うんです。

みんなが街のことを考えているということですからね。それでいいんじゃないかと思っています。ただ一番大事な景観。自然景観を壊さないということで、まちづくり条例を先に作って、高さ制限14mで4階までというようなね。ヨーロッパを見てきたものを形にしたわけです。それができたことが時代的にどんどん高さ競争をしているような開発が他都市で進む中でも、民意を反映し景観を守ってこられた要因です。

由布院の街と緑

(徳永)由布院駅のホームの横の桜とか、植樹をして街に緑を増やされているそうですね。

(溝口)由布院の緑の象徴としてコナラやクヌギなど、地域で親しまれてきた落葉樹を中心に植えましたね。大分銀行のポケットパークにも植樹をしました。このように緑が広がっていき、本田静六博士が話された町全体が森林公園のような場所になっていくといいなと思っています。皆さんにご理解いただいて、緑が街全体に広がっていって欲しいですね。

元々玉の湯の敷地もは田んぼでした。3m掘って土を入れ替え、木を植えると3~5年位はクヌギが育つが、どんどん成長が衰えてしまうんです。保水が良すぎたんでしょうね、根腐れを起こしてしまいました。私は山に行くのが好きで、山の景観をたくさん見てきているので、木が生きていくためには水が豊富な所は適しておらず、水が少ない中必死に根を張っていくものを敷地内につくろうと思いました。

その時は皆さんからおかしくなったと思われていたようです。稲を植えて育てるのではなく木を植えるため、森をつくるために田んぼを潰しているわけですからね。河川の改修も中心となって取り組みました。今では森のようになりましたが、全部やり替えたんですよ。皆が自分の敷地内を少しずつ緑化してくれることでも、由布院全体の緑が増えてこれからの未来の人たちにバトンをつなげていけたらとおもっています。