玉の湯の歳月

Company History
お客様とともに、由布院とともに歳月を重ねてきた玉の湯。
禅寺の保養所に始まり、現在では雑木林の中に点在するはなれ家の宿として、
多くのお客様に知られるようになりました。その歩みをご紹介します。
禅寺の保養所として開業
一九五三年
禅寺の保養所として開業
昭和初期、高等学校の外国人教師らに避暑地として注目された由布院。森林の中に木造平屋の貸別荘が建てられ、ベビーゴルフ場がつくられるなど、外国人の保養地として現在の土台を形成していきました。太平洋戦争により環境は一変し、1952年当時、由布院は寂れた旅館が点在する寒村となりました。その翌年の1953年、禅寺の保養所という形で初代・溝口岳人により玉の湯が設立され、宿としての歴史を歩み始めました。
合資会社玉の湯旅館へ
一九六六年
合資会社玉の湯旅館へ
1955年、由布院町と湯平村が合併し「湯布院町」が誕生。1959年には国から国民保養温泉地の指定を受け、急速に整備されていきました。1960年代に入ると日本は高度経済成長に沸き立ち、1962年に「合資会社玉の湯旅館」を設立。九州横断道路(やまなみハイウェイ)が全線開通、長崎と別府を結ぶ急行列車が開通するなど、由布院観光の盛り上がりが期待される中、二代目の溝口薫平が玉の湯の経営に参画。由布院温泉観光協会の専務理事に就任し、本格的に町づくりへと携わるようになりました。
温泉保養地の街づくりを
一九七一年
温泉保養地の街づくりを
高度経済成長期の温泉地は大型化、効率化が主流で、規模の小さな由布院では太刀打ちできず「よそと違う温泉地、地域づくりを」と、1971年に溝口薫平らがヨーロッパを歴訪。ドイツ・バーデンヴァイラーなどを訪れ、温泉保養地としてのあり方を実感することになりました。それが1981年、由布院の国民保健温泉地第一号の指定につながっていきます。また玉の湯では1971年に行われた河川改修工事に合わせて土を入れ替え、1974年から2年をかけた大改築を経て雑木林の小径が完成。以来、「虫や鳥が安心して休息できる庭のように、人々に癒しを提供できる由布院にしたい」という想いが、町づくりの原点となりました。
のどかさを守る湯布院の憲法
一九九〇年
のどかさを守る湯布院の憲法
電柱看板の排除や九州芸術工科大学(現・九州大学芸術工学部)と環境設計を行い統一案内看板を設置するなど、さまざまな取り組みが進む中、1980年代には安心して楽しめる生活型温泉地に注目が集まり、辻馬車や音楽祭、映画祭などもあって由布院は一躍人気スポットへ。玉の湯も1982年に「株式会社玉の湯」を設立。ところがバブル景気を追い風に、大型ホテルの進出計画、マンションや分譲別荘地の開発計画などが殺到し、癒しの里として成長してきた由布院は崩壊の危機に直面します。そこで1990年に施行されたのが、湯布院の憲法とされる潤いのある町づくり条例です。建物の高さ、建ぺい率、屋根の色や形を細かく定めたもので、これがいまなお由布院ののどかな環境を守っています。
STAY玉の湯をオープン
現代
STAY玉の湯をオープン

豊かな田園風景と由布院盆地の自然の恵みを求め、由布院は年間約400万人の観光客が訪れる日本屈指の保養温泉地となりました。2019年には由布市内の塚原温泉、庄内温泉、挾間温泉を含めた「湯布院温泉郷」として国民保養温泉地に拡充指定され、滞在型・循環型保養温泉地を目指しています。そうした中、2024年1月、玉の湯は「暮らすように旅をする」ことをコンセプトに、別館として「STAY 玉の湯」をオープンさせました。最大30日までの長期滞在が可能で、医療スタッフを配置し近隣のクリニックと連携することで健康状態に不安がある方でも安心して由布院の滞在をお楽しみいただけるようになりました。

玉の湯はこれからも変わらず、由布院の町、そしてお客さまとともに歳月を重ね、 虫庭の宿、文人墨客の拠点として、皆さまのお越しをお待ちしています。

会社概要

会社名 株式会社 玉の湯
代表者 代表取締役 桑野和泉
所在地 〒879-5197 大分県由布市湯布院町大字川上2731-1
業種 サービス業
資本金 3000万円
従業員数 50名
事業内容 旅館業(16室)/レストラン(山里料理葡萄屋)/売店(由布院市)/ティールーム&バー(ティールームニコル、Nicol’s Bar)
主要職種 営業、フロント、一般事務、企画、販売、サービス、技術職
福利厚生 社会保険 各種保険完備

採用情報

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